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3331アンデパンダン展 講評会ゲストによる選評

3331 Arts Chiyodaのオープン以降、より多くの方に参加してほしいという想いを込めて毎秋開催している千代田芸術祭。展示部門「3331アンデパンダン」の実施は今年で3回目となります。今回の受賞作品の選評を掲載いたします。今年も約300組の応募作品を展示させていただきました。ゲストのみなさま、参加者のみなさまが「今の時代のアンデパンダン」を楽しんで参加していただいたようです。
2013年1月26日(土)からは、ゲストにより選出された8組とオーディエンス賞を受賞した、計9組のスカラシップ受賞者が、3331 のメインギャラリーにて展覧会を行います。ご期待ください!

公開講評会にてゲストを努めてくださった東谷隆司氏が2012年10月16日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。生前に、アンデパンダンのゲストとしてコメントをいただいておりましたので、ここに掲載させていただきます。

<講評会実施日>
2012年9月16日(日) 13:00~18:00
ゲストA組/青木淳さん、中村政人さん
ゲストB組/東谷隆司さん、齋藤芽生さん

2012年9月17日(月・祝) 13:00~18:00
ゲストA組/クワクボリョウタさん、佐藤直樹さん
ゲストB組/塩見有子さん、森裕一さん

青木淳 賞:竹浪音羽「まるまるせかい」

竹浪音羽「まるまるせかい」

青木淳

選評:青木淳(建築家)
数多くのそれぞれずいぶん違う試みが一堂に会するなか、そのひとつひとつの世界に驚いたり、愉快になったり、納得したり、疑問を感じたりしながら見てまわって、でもずっと気になってしかたない作品というものがありました。それが竹浪音羽さんの4枚からなる組作品で、「テレビを見ているだけの一日になっちゃってる。こんなことではだめだ!」と、それで、いろいろなにかをやってみるものの、やっぱりだめで、そんなばらばらな試みがただただ無為に集積していってしまって、そのためいっそう無力感に打ちひしがれてしまう、そんなそっけない空虚さというべきものが強く感じられ、もしこの人の作品がもっとまとまって展示され、自分がその中に身を置けたらどんなだろうな、と思って、スカラシップに選びました。



中村政人 賞:宮本和之「0座標へ」

宮本和之「0座標へ」

中村政人

選評:中村政人(アーティスト、3331統括ディレクター)
一見、震災をテーマにした作品かと思ったが、テキストを読み、ツイッターのテキストと写真を観ると、2012年の4月17日から5月17日までキャンバスを「引きずる」というパフォーマンスを行い、その結果生まれた作品であった。徳島県鳴門市の霊山寺から香川県さぬき市にある大窪寺までの八十八カ所を本当に引きずり歩いている。本人は「自分がうるさい。見てる自分と考えてる自分がある。自分が多すぎる。統合するために無くそうと思う。キャンパスをひきずって物体を無くす作品を制作しゼロ地点を目指す」と始めにツイートしている。ずいぶんと青春まっただ中だ。しかし、その純粋になろうと切実な表現は、期待値が高い。



東谷隆司 賞:micarinko「ケノコラージュ」

micarinko「ケノコラージュ」

東谷隆司

東谷隆司(インディペンデント・キュレーター)
講評でいくつかの作品に共通して意見したのは、ひとつの作品に、アイデアが詰め込まれ過ぎている作品が多々見られたことだった。作品の印象を散漫にしている。その散漫さに対し、私は「抜き」が重要である、とした。作品の本質を先鋭的にするには、根本のアイデアに入り込んだ要素を作品から抜きとる必要がある。その意味でも私が注目したのは、micarincoによる「ケノコラージュ」だ。コラージュされているのは、恐らくファッション誌のモデルの髪の毛の写真を切り抜いたものだろう。種々の髪型が画面にうねりをもたらしている様子は生命的にすら感じた。感心したのは、往々にしてコラージュが重ね貼りによる凹凸を見せるのに対し、素材が支持体に対して極めて平面的で緊張感をもたらしていることだ。コラージュの素材を髪の毛の写真に限定し、その他の要素を抜くことで、作品の物質性を排除している。また画面上のコラージュ部分以外に余分なものを抜き、余白をもたせていることも内容を明確にしていた。スカラシップ展では、よりスケールの大きな作品も観てみたいと思わせられた。



齋藤芽生 賞:相良裕介「Paving 01」「Paving 02」「Paving 03」

相良裕介「Paving 01」「Paving 02」「Paving 03」

齋藤芽生

選評:齋藤芽生(画家)
アンデパンダンならではの破天荒で無頓着な作品を期待しつつ会場に足を踏み入れたが、多くの作品の一見自由な色彩や題材は、案外みな似たり寄ったりの趣味性の中に没していた。その中で本作品は燻し銀の暗い輝きを放っていた。用が無くても刀の腕を黙々と鍛錬し続ける、幸福な時代の不幸な剣士のように。作者の顔はと見ると、お洒落な外見とは相反する、若手作家特有の切実な暗い目の輝きにぶつかった。「切実さ」という言葉が講評会のキーワードとして頻出する中、徒労と不毛を厭わない粘着性、趣味を越え作品で食っていこうとする覚悟が、かえって潔く見えた。玉砂利とも細胞とも違う無数の粒の集合体を加工したような平滑な断面。近づくごとにそれが「描画」の表面であることに気付き、微細な凹凸がこちらの皮膚感覚を刺激する。まだ自分の武器を使いあぐねているという感もある。執拗な手技に依るこの暗い鉱石の輝きがより光って見える場所や形式をさらに研究して伸びていってほしい。



クワクボリョウタ 賞:島本了多「体の器」

島本了多「体の器」

クワクボリョウタ

選評:クワクボリョウタ(メディア・アーティスト)
島本了多さんの作品「体の器」に魅かれました。今回のプレゼンテーションは器が円卓に所狭しと並べられていてややてんこ盛り状態で、要素の編集や配置に改善の余地はあったけれど、ひとつひとつのパーツはとても丁寧作られていて、完成度の高さを感じます。
作品は作者本人の身体をあちこち型取りしたものだということですが、今後この作品をプロダクトとして洗練していくにしても、あるいは芸術作品として模索していくにしても、そのスタート地点を注意深く選択することで今後さまざまな展開が期待できると思いました。
たとえば特定の誰かを対象として選んだり、執拗に特定の器官に焦点を当てたり、実際に器を使って食事を振る舞ったり、他の国の作法やしきたりなどと交差させたりしていくうちに、普遍性のある作品になる可能性を秘めています。
だいたい人の体に触れる、それも口で触れる、というのはちょっと特別なことです。たぶん普通は特定の人としかしない行為です。しかし、この器になった人は身を以て見知らぬ大勢の人に食事やお酒を提供するわけです。そうとう強烈ですよね!



佐藤直樹 賞:中村まさし「がーるずとーく」

中村まさし「がーるずとーく」

佐藤直樹

選評:佐藤直樹(ASYL アートディレクター、3331 デザインディレクター、多摩美術大学准教授)
まず「スマホの中で何やってんのかな~?」と思ったわけです。そんなに中に入りたいのかなと。でも中に入りたいのか中で行われている「がーるずとーく」に交じりたいのかは結構大きな問題な気がしますよね。そもそもこういった空間の中に自分を存在させるってこと自体がどういうことなのかよくわからないんですけど。それはたぶん今のところまだ誰にもわかってないことで。そこらへんの話を聞いてみたい気もしたし聞かないでおいたほうがいい気もしたし結局聞いてないんですけどすごく気にはなりました。そんなことを考えさせられている時点で何かにヒットしたってことなんだと思います。デジタルメディアが世の中に出回り始めた頃はわりとみんなそういうこと考えてたはずなんですが機能やサービスが進み追従するのに精一杯みたいになってソーシャルがどうしたとかそんなものばかりになってきてることにウンザリしてたので今普及しているものを使ってムチャやってる感じがよかったです。



塩見有子 賞:Sari Doi「Cosmic Lovers」

Sari Doi「Cosmic Lovers」

塩見有子

選評:塩見有子(NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ [AIT/エイト] ディレクター)
アンデパンダン展なので、どのような作品を選ぶかは、事前に決めずに審査に臨みました。当日は、会場を巡り、作品の前で作家と話しながら審査が進むのですが、作品の意図について、「正しい答えはこれです」と一つの解を示さない姿勢が、来年の展覧会でSari Doiさんの作品を見てみたいという思いにつながりました。また、彼女と会話をするなかで、私は作家でなければならない(他の何者にもなれない)といったある種の覚悟と勢いのようなものにも印象づけられました。
全体としては、多種多様な作品で埋め尽くされるばらばら感がありますが、ほとんどの作品は平面(特に絵画)と立体作品で占められていました。展示空間をサイズ別に購入する仕組みなので、そもそも難しいのかもしれませんが、そうした枠組みから逸脱する作品も、今後は期待したいと思いました。



森裕一 賞:渡部剛「Landscape of abstract cityー抽象都市の風景画」

渡部剛「Landscape of abstract cityー抽象都市の風景画」

森裕一

選評:森裕一(MORI YU GALLERY 代表)
渡部剛氏の「Landscape of abstract cityー抽象都市の風景画」は、雑誌などのイメージや印刷物の文字を切抜き制作されたコラージュ作品。もはや何がリアルであるのかさえ理解し難い現代都市の写しなのであろうか。日本人でコラージュといえば大竹伸朗を想起するが、それとは真逆のテイスト。一見理路整然と貼り付けられていくコラージュをよくみてみると、興味深いのは渡部の使うイメージのほとんどが人物で、それらは仮面のようなものをつけている。薄められ抽象化されてきた都市の有様において、そこに潜むこうした多くの人格は、コラージュにより都市そのものとしてたとえられ、一種不気味さを纏う。しかし何故であろうか、時間の経過と共に、抽象化されたはずの人物は不思議にも現実感を背負いつつ鑑賞者に迫り、仮面の裏には何かを捉える密かなる意思がみえ隠れし出すのだ。これは、フロイトの「不気味さ(Unheimlich、unhomely)」の逆の意味において、元々不気味さと背中合せの心地良さ(「homely」)へと誘導されたかのようだ。
曖昧模糊とした現代都市への皮肉とも解釈できる渡部の作品は、都市の立体的、多角的表情をともないながら悪い意味での抽象的な世界に現実の楔を打ち込む。不気味さの可逆性と同様に、雑誌や若者の言葉では本来の意味を失いつつある言語を抽象化の都市に漂わせながらも、そこから本来の言語の意味を救い出そうとしてるようにもみえてくる。アンデパンダンという自由のなかで、硬い表現の作品が多いのに驚かされた。自由という不気味な海で溺れてこそ、独特のダイナミックな泳ぎ方を会得できるのではないか。そういう意味において渡部の作品はある独特の泳法を持つものとして興味深かった。ただ、ひょっとして読み手(鑑賞者)の方の反応も織り込み済みなら、私は一杯食わされたことになろうか。ノイズと真逆のコラージュ。その両極を理解しながらもやや次元の違うところにこそ本当の意味でのアンデパンダン的面白さがあるのではないかという思いを新たにしつつ、渡部の次回作品を期待して待ちたい。



オーディエンス 賞:駒場拓也「希望の光」

駒場拓也「希望の光」

オーディエンス

3331 からのコメント
来場者による投票第一位でオーディエンス賞に輝いた作品「希望の光」。会場のなかでもひときわ色彩豊かで、観る者を惹きつけたこの絵画は、山のなかで着想を得た、光と闇を描いた作品です。木々の向こうから大地を照らす太陽やゆらぐ葉から差し込む木漏れ日など、作家自身が森で観た風景を描きました。絵画を独学で学んだという駒場さんは「海、山、風などの自然に触れ、自分もその一部と感じることで多くを学ぶことができる。作品もその自然の流れに身を任せて制作しています」と話します。[3331 Arts Chiyoda]